今は本を読むことぐらい

本のある充実した時間 でもそれだけでは物足りない

「教養部しのろ教授の大学入門」

「教養部しのろ教授の大学入門」

紀川しのろ著  ナカニシヤ出版  2014年

 

 

 大学教授の日常をユーモラスに描いたエッセイ風作品。

 

 今や学生の半数以上が進学する大学。しかしその中身について多くを知ることなく、卒業していく。もちろん余計なことを知る必要はないのだが、一般に考えられている最高学府のイメージとのギャップは少なからずあると思われるので、本書のような読み物は一定の支持を受けるだろう。

 

 Cランクのミッション系私立大学に赴任した教授という設定で、大学の内情をコミカルかつアイロニカルに描写している。読んでみてどう感じるだろうか? 大学教授(教員)は気楽でいいねとか、もっとしっかり教育に取り組むべきだとか、どちらかというと好意的な感想は少ないのではないだろうか。本書はフィクションの体裁をとってあるものの、ここに書かれていることはおよそ真実であろう。私は国立大学もとい独立行政法人の理系学部にいたので本書の舞台である私立大学文系学部の事はよく知らないが、「そうそう」とか「うらやましいな」などと大学の違いを比較しながら面白く読めた。国立理系と違うところは以下の2点か。

 

1 私立大学にとって学生は経営を支えるお客様であるが、国立大学ではそのような意識はまだ薄い。なぜなら黙っていても高次元の競争を勝ち抜いて優秀な学生が毎年入学してくるし、国からの財源のバックアップもあるため。とはいうものの独立行政法人化後にはオープンキャンパスをやったり各地で大学説明会を開くなど「集客」に精を出し、入学後の学生サポートも用意するようになってきた。

 

2 文系と理系の教員の差が如実に出るのが研究に充てる時間である。理系の教員の評価は何をさておいても研究業績であり、残念ながら教育能力ではない。ゆえに長期間講義の無い夏休みや春休みに悠々と休暇をとるヒトはなく、実験・研究に打ち込んでいる。もちろんこれは理系職員の研究時間が極端に多いということであり、文系の教員が研究していないということではない。念のため。

 

 本書を通じてのんびりとした日常が描かれているが、大学の教員も悠長に日々を過ごしていける時代ではなくなってきている。国立大学は交付金が年々減らされて外部資金の獲得がより一層求められているし、一癖も二癖もある人間がいるのが大学である。職務の遂行だけでなく、そういった人たちとうまく付き合っていかないと大学に居心地よく残るのは難しい。これは企業なんかと一緒だと思うが、そうはいっても世間一般から見れば特殊な世界でしょうね。

 

 

 

 

「学校蔵の特別授業‐佐渡から考える島国ニッポンの未来」

「学校蔵の特別授業‐佐渡から考える島国ニッポンの未来」

尾畑留美子著  日経BP社  2015年

 

 

 佐渡の廃校になった小学校を舞台に地元の酒造会社が「学校蔵」として再出発させた取り組みについて書かれた本。

 

 地方の活力の低下については深刻な問題としてとらえられており、人口増加と活性化の必要性が各地で叫ばれているにもかかわらず都市圏への人口集中の傾向が変わることがない。総務省の人口推計(平成29年10月時点)では、人口が増加したのは東京、埼玉、千葉、神奈川、愛知、福岡、沖縄の7都県のみ。沖縄を除いては都市部への人口移動が鮮明になっている。

https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2017np/index.html

 

 「学校蔵」というのは地元佐渡の酒造会社が廃校となった小学校に醸造設備を導入して酒造りをするとともに、酒造りの学びの場として、そして他地域との交流の場として利用するのを目的としたものである。では、地方を元気にするにはどうすれば良いのだろうか?そこで、3人の先生が参加者とともに方法を探っていくというのが表題の「学校蔵の特別授業」となる、らしい。というのは、本書では学校蔵で行われた授業そのものではなく、講師を務めた3人の識者と著者との対談がメインになっているからだ。本来講師と参加者の双方向の議論のやりとりとそこから生まれる方向性が重要であるにもかかわらず、なぜタイトル通り特別授業の内容紹介をしなかったのか理解に苦しむところである。巻頭の写真を見るとテレビカメラなども入っていたようだから、メディア先行の活動で上手く乗せられて本書を出したのかもしれない。そもそもこの特別授業における「自発的な一般参加者」がどれくらいいたのかも気になる。気になるのであれば参加するべし、ということなのだろう。ホームページを見るとその後も毎年「学校蔵の特別授業」は続けられているようなので、惰性的で形ばかりのものでないのであれば実り多い体験なのかも知れない。

 

 以上のように特別授業に関して不明朗に感じる内容ではあるが、終盤に付けたしのように書かれている学校蔵本来の具体的な取り組みを紹介した項は重要である。まだ始まったばかりのようなので、今後具体的な成果が出てくるようであれば世に発信して頂きたいところである。

 

 本書の対談で重要なことがあった。それは地域活性化のためには単に人を移住等で呼び込むのではなく、地域の問題を一緒に解決しようとする「課題共有モデル」の提唱。これの実現には、その地域特有の課題もしくは伸ばしていけそうな長所をあぶりださないといけないが、そもそもそれらの認識自体がされていないという問題が横たわっている。さて、地域活性化を実行できるヒトが育つきっかけとなるだろうか。

 

 

「美術品はなぜ盗まれるのか‐ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い」

「美術品はなぜ盗まれるのか‐ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い」

サンディ・ネアン著  中山ゆかり訳  白水社  2013年

 

 

 某ネット衣料販売会社の社長がバスキアを落札しているというニュースをみて、高額な絵画を手に入れるのはいいが、どうやって安全に保管しているのだろう?と要らぬ心配をしていたところ目についた作品。まあ縁起でもないか。

 

 イギリスのテートギャラリーからドイツのシルン美術館に貸し出されていたターナーの2作品が盗難にあってから、それらを取り戻すまでの過程をギャラリー職員の視点から描いたノンフィクション作品。

 

 盗まれた美術品を取り戻すための行動。警察は犯人逮捕とその裏の組織へのアプローチを第一目的とする。作品の所有者である美術館は純粋に絵画を取り戻すことを目的とする。そして保険会社は莫大な保険金の支払いを免れるため作品の行方を追う。それぞれの思惑のもとに捜査と作品所有者側との交渉が行われていく。高額の懸賞金に釣られた詐欺師の跋扈。保険会社と美術館との間での保険金や作品の所有権のやり取り。そしてエージェントを通じた作品保有側の窓口となる弁護士との粘り強い交渉。ここには美術品盗難事件の表に出ない交渉事が描かれている。しかも美術館職員(もちろん上役)自身が身の危険を顧みず交渉に直接・間接に関わるのは驚きである。経緯は比較的細かく書かれているものの、おそらくオープンにできない内容も多数あったのではないか。アクションやサスペンス風な描写はなく、淡々と8年あまりにも及ぶ捜索と返還交渉の物語(記録)が進んでいく。

 

 オークション全盛で美術品が巨額で取引されるようになったのも狙われる一因であるが、昔から名画と目される作品は多数盗難にあっている。ダヴィンチのモナリザムンクの叫び等もそうだし、絵画は宝飾品と違って破損しやすいため返還された場合でも良い状態を保っているとは限らない。また盗難後そのまま行方知れずになった作品も多いようだ。世に良く知られた作品は強奪しても金に換えるのは難しいとみられるが、裏の世界では単純な換金以外に高価な美術品の活用方法があるという。本書の後半では過去の盗難事件の考察などを通じて美術品盗難の本質を検証していて、美術館で作品をただ眺める私のような絵心の無いものにとってはいろんな意味で興味深い内容である。

 

 高額な絵画を手にすることができたとしても小心者の私では心配で夜もおちおち寝ていられないし、外を出歩く時も常に周りを警戒して疲れてしまうだろう。こういった美術品を所有するヒトというのはカネだけでない何かを持ち合わせているに違いない。

 

 

「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」

「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」

神田 桂一、菊池 良著  宝島社  2017年

 

 

 ・・・う~む・・・むむむ・・・。

 

 書架から手に取ってたまたま最初に開いたリクルートの項にニヤリとしてしまったのが運の尽き。ほほ~と思う項もいくつかあるけど、それ以外の大部分については時間の無駄かも。

 

 本書の内容はタイトル通りでなかなか面白いアイデアだと思うが、100項目もそれぞれの作家や漫画家等の特徴を出して書き分けるというのはなかなか難しい。理解できない項の場合は元の作家の作品を読み込んでいないからだ、と言われればそれまでだが、ここに記載の全ての項目を楽しめた人は大変な読書家であり、ユーモアとくだらなさを理解できる素晴らしい人ではないだろうか。

 

 もし読者アンケートなどで面白いものを選んでもらったら数個の作品に投票が集中し、その他は完全に置いて行かれるという悲しいパターンになるでしょう。特別工夫を凝らすことのない単純な文体(語句)の置き換えであり、安易な方向に走った企画本。

 

 

「偽りの帝国 緊急報告 フォルクスワーゲン排ガス不正の闇」

「偽りの帝国 緊急報告 フォルクスワーゲン排ガス不正の闇」

熊谷 徹著  文藝春秋  2016年

 

 

 現在(2019年初頭)において自動車業界は大きな転換点を迎えている。キーポイントは2点。一つはAIの発展による自動運転技術の開発と法令の整備。そしてノーエミッションビークル(電気自動車 EV)販売の加速。特に後者はEUがより一層のCO2削減を目的としており、従来のディーゼル車はもとよりハイブリッド車でもこの数値目標を達成するのは難しいと考えられているからだ。

 

 EVへの傾倒は本書の本題であるVW(本体とグループ会社)のディーゼルエンジンの排ガス不正問題が引き金を引いたことは間違いない。この不正はアメリカで販売されているVWディーゼルエンジン搭載車が、公的機関の排ガス検査をパスしたにもかかわらず、公道での走行中には基準値を大幅に超えるNOxを排出していることが指摘されたことから始まる。原因は排ガス検査の時だけ排ガス浄化装置を働かせ、それ以外の条件ではその機能を停止するようなソフトウエアが搭載されていたことだった。メーカーエンジニアによって巧妙に仕組まれたこの不正事件はメディアにも数多く取り上げられ、イメージダウンの結果、ディーゼルエンジン車が正規輸入されていない日本でも販売台数を大きく落とすこととなった。

 

VWの日本での新車登録台数(日本自動車輸入組合HPより)

2014年 67,438台

2015年 54,766台   この年に排ガス不正発覚

2016年 47,234台

2017年 49,040台  

 

 さて、著者はVW内部の統治体制がこの問題を引き起こした大きな要因であると指摘し、VWの歴史的背景などから分かりやすく論じている。それに加えて「有用な規則違反」についての論考はVWやドイツ産業界だけにとどまらない極めて重要なものと考えられる。軽微な運用上の違反から法律違反へ。どの国のどの企業でも起きうることを示唆している。

 

 本書は副題にもあるように緊急報告として事件発覚から1年経たずに上梓されたもので、当初のまだ数少ない情報を上手くまとめ上げているが、その後の顛末記も読んでみたいと思う。また、2018年になってVWディーゼルエンジン搭載車を日本に導入してきているので、その評判と販売動向を知りたいところである。もちろん排ガスはきちんと処理されていることであろう。